「遅れてきた春」 0016
 聴こえてくるのは水平対向6気筒のエンジン音だけになった。窓の外を流れるのはスイスの風景、恐らくカルヴァンの時代からなにも変わっていない。
「いかにも退屈な国だな、このスイスって国は。一見したところだけだが…」
 男が沈黙をやぶった。
「表向きはな… 『第三の男』にあったじゃろう」とケート。
「オーソン・ウェルズ扮する男が言いおった…」  
 エドナが言い終わらないうちに男がうける。
「メディチ家の独裁はルネサンスを産んだが、スイスの平和がもたらしたのはポッポッポの鳩時計だけ…」
「さよう、しかしそれは表向きじゃ。スイスの銀行はユダヤ人たちから預かった資産をヒトラーがどんなに脅しても渡さんかった。しかし同時にナチがユダヤ人から奪った財産も預かり、つい最近までその事実も隠しておった」
「金に色はついておらんしの」
「ヤヌスじゃよ、二つの顔を備えた」
「そいつは金についてなのか、それともスイスのことか?」
 男がさえぎった。
「さあね、まぁ金は善悪どちらでもないわさ。こいつと同じでね、手にする者しだいさ」
 そうつぶやきながらいつのまに取り出したのか、ケートは黒光りする銃身をなでまわしていた。
「こいつは圧制者の手伝いもすれば、自由を取り戻す手段ともなる」
 男は黙ったままフロントガラスの向こう側を見つめた。規則的に見上げていたルームミラーに、その時はじめて小さな黒い影が現れた