「遅れてきた春」 0017
 それは後部座席の2人が、シートの狭さにブツブツ言いだしたときだった。ポルシェの後部座席について、カタログにはこう書いてある。「お子様なら充分のスペースがあります。大人でも短時間なら問題ありません」と。一般にはワン・マイル・シートと言われており、かまわず乗り込んできたことを後悔し始める時間はすでに過ぎていた。男はとっさに3速にいれていたギアを、ニュートラルにするとダブルクラッチで2速にたたき込んだ。シフトが重くなり、空ぶかしが足りなかったことを車は訴える。

  完璧なシフトチェンジをしないと、ドライバーをあざ笑うかのように911は拒否反応を示すのだ。一瞬男は「焼きが回ったか」とステアリングを握る力が削がれてしまった。その間にもバックミラー越しに、背後の車は迫ってくる。車種はなんだろう? 一見普通のセダンに見える。そう、あれはランチア・テーマだ。しかもフロントグリルの格子模様はタイプ8・32のものだ。8・32とは8気筒32バルブのこと。この車は通常PRVの3.0L、V6エンジンを搭載しているが8・32はフェラーリ308の3.0Lエンジンを、無理矢理FFの狭いエンジンルームに押し込んだモデルだ。最高速は220km位だろうか?いずれにしてもリアシートに300ポンドの「荷物」を背負った911では引き離すのは難しい。焼きが回ったと思ったのはそこまでの読みが一瞬のうちに計算できなくて、無意味なシフトダウンをしたことも含んでいた。
  市街地を抜けてしばらく過ぎていたので、対抗車はほとんどない。ややきつめの右カーブにさしかかったところで、一度センターライン側へフェイントをした後、インへ回り込んだ。後ろの車からの死角に入ったところでフルブレーキ。ひと昔前のレーシングモデルのブレーキを装備した911の制動力はすさまじい。右側ぎりぎりに停車させたその瞬間、うしろから悲鳴のようなタイヤのスリップ音が聞こえた。
  ギャ、ギャ、ギャ、ギャー
  四輪すべてがロックしてしまい。911のリアに迫ってくる。もうぶつかると思ったその瞬間。8・32のドライバーはブレーキをゆるめ、思いっきり左に切った。フロントタイヤは突然グリップを回復し、リアの軽いFF車はテールを振られて90度以上スピンしてとまった。ガツンという鈍い音がしてフロントをガードレールにぶつけたことがわかった。
  あたりは一瞬静粛になった。バサバサいう911のエンジン音と8・32のラジエーターからシューシューという蒸気がもれる音が妙に大きく谷間に響いていた。
  男はアイドリングのままゆっくりと911のクラッチをつないだ。
  首を左にむけると黒に近い濃いエンジの8.32のドアがあいてアラブ人風の彫りの深い男の顔が目に入った。表情はなかった。目だけが鋭く光っているような気がした。

  プロのテクニックだった。車を911にぶつけてしまうこともできたはずである。そうすれば彼の目的の一部は達成できたろう。しかしそれをせずに自滅することを「選んだ」のだ。単独行動ではないだろう。とすればむしろ今後こちらのミスをねらって彼の仲間が再び襲ってくるかもしれないのだ。
  「まったくやっかいなことになったな」と悪態をついた。
  そのときになってからやっと、リアシートから声が漏れはじめた。