「遅れてきた春」 0005
 慌ててヴァイオリンケースのフタを閉めると取り繕ったような笑顔が口元に浮かぶのが自分でもわかった。男は女性に席を勧めると何食わぬ顔をして話し始めた。自分がいまでは音楽をやっていないこと、しかし音楽から離れられず楽器商をしていること、チューリヒには仕事できたということ。あたりさわりのない程度の会話であった。話しながら男はどうしても彼女の瞳に目が吸い寄せられていってしまう自分を押さえられなかった。似ているのである。自分が20年前、チューリヒの置き去りにしてきたあの女性に。生き写しというわけではないが瞳がどことなく似ているのである。そういえばあの女もじっと目を見て話す癖があった。うなずきながらその女性は男の顔をじっと見ている。女性といっても年のころは21、2であろうか。まだあどけない少女の面影がその顔の輪郭に残っている。

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