「遅れてきた春」 0006
 ぎこちない二人の会話を車内アナウンスが遮った。まもなくチューリッヒである。膝においていたバイオリンケースを座席におろして下車する支度を始めた男を、娘は静かに見つめていた。どうやら娘はここでは降りないようだ。「ど、どちらまで?」、ほとんど無意識のうちに、男は娘に訪ねていた。「ベルンです」。「ベルン?」。かつて男が恋人としばしば訪れた街だ。もう何年も行っていない。時計台の近くで路面電車の停留所脇に、彼女がお気に入りアンティークショップがあった。二人で覗いたショーウィンドウに映った恋人の顔が目の前の彼女に重なった。男は動揺を隠せなかった。


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