「遅れてきた春」 0003-0004
 のちのち彼女のことを思い出すとき、彼にはその容貌の描写がうまくできなかった。髪の色、瞳の色、唇は薄かったか、細部はどれも曖昧、なにひとつ正確には思い出せなかった。ただその問いかける表情には人を惹きつけるなにかがあった。顔の部分品で言えばただひとつ彼があげることができたのはその額だった。車窓から差し込む陽光に輝く額、生え際から後ろへ向かい顔のまわりに広がる髪は光りそのもの、そして額の下にならぶ二つの眼。  何秒、あるいはただの一瞬だったのか、彼は初対面の女性に対し不躾という気づかいすることなどまったくなしに、その顔を見続けた。  「どうかなさいました?」

 隣の女性から2度も声をかけられて、やっと現実に戻った。思えば自分がチュ−リッヒに今回くることになったのはほかでもない、自分の学生時代のツケを清算するためだったのだ。ウィ−ンでバイオリンを勉強するため留学し、そこでチュ−リッヒから勉強に来ていた彼女と会ったのが、二人のスタ−トだった。僕が22歳、彼女は18歳だったとおもう。年よりは早熟で、実際はもっと大人に見えた女(ひと)。レッスンが終わると、ドイツ語の練習と言って彼女を誘って二人で外に出かけたものだった。