「遅れてきた春」 0011
 約束の時間までにはまだかなりあった。「少し旧市街をぶらぶらしてみてはどうだ?」コードネーム・アルテマエストロは勧めてくれたが、今一つ気が進まなかった。実際こんなにも何もかもがあの頃と変わっていないとは思わなかったのだ。自分の気持ちに戸惑いながらリマト川沿いを足に任せて歩いていると、ふいに聖母寺院の鐘が鳴り始めた。「コレはいかん。」

 今考えてみると何もかもが用意周到に仕組まれた罠だったような気がする。20年前留学先のウィーンで何の疑いもなく毎日ヴァイオリンばかり弾いていたあの頃。。。『コンクールの順位なんて所詮楽器の善し悪しの順位なんだな』と腐っていた私に『仮にもプロを目指すなら、もう少しまともな楽器を手に入れてから出直して来い』と冷たく言い放ったアカデミーの教授。伴奏をしてくれていた鳶色の目をしたあの少女は、二人きりになった時に私の肩を抱いてはらはらと涙を流してくれた。『亡くなった祖父の楽器。あなたになら貸してあげるわ。弟がフルサイズを使えるようになるまでにはまだまだ何年もかかるだろうから』と飴色に輝くニッコロ・アマティを手渡してくれた彼女。その楽器が盗品であるとわかったときには何もかもが終わっていた。しかし、人はあんなにまっすぐと相手の瞳をのぞき込みながら人を陥れることができるものだろうか?