********************** 「遅れてきた春」TEXT版 **********************  南回りの安旅は長かった。窮屈なエコノミーのせいでこちこちになった腰を 伸ばすと、男は足早に地下の鉄道に乗り込んだ。列車が地上に出ると、誰に言 うでもなく、男は呟いた。「変わらないな、チューリヒは・・・彼女もそうだ といいが・・・」がらがらの座席に腰掛けた男は、おもむろにハードケースの 蓋を開けると、大事な荷物の中身を確かめた。美しい五月の優しい光に、たと えようもなくきれいに輝く飴色のアマティがそこにあった。  「音楽をおやりになるんですか?」右耳に流暢な日本語がソプラノで飛び込 む。過去に向かいかけていた彼の意識は唐突に引き戻された。ほとんど乗客が いないと思い無意識のうちに無防備になっていたことと、話し掛けられたのが 生れたくにの言葉であったことと、2つの意味で驚かされて、すぐには返事も できずに相手の顔に視線を向ける。妙な間の空いたことにすこし怪訝な顔をし た、うつくしい女性がそこにはいた。  のちのち彼女のことを思い出すとき、彼にはその容貌の描写がうまくできな かった。髪の色、瞳の色、唇は薄かったか、細部はどれも曖昧、なにひとつ正 確には思い出せなかった。ただその問いかける表情には人を惹きつけるなにか があった。顔の部分品で言えばただひとつ彼があげることができたのはその額 だった。車窓から差し込む陽光に輝く額、生え際から後ろへ向かい顔のまわり に広がる髪は光りそのもの、そして額の下にならぶ二つの眼。 何秒、あるい はただの一瞬だったのか、彼は初対面の女性に対し不躾という気づかいするこ となどまったくなしに、その顔を見続けた。  「どうかなさいました?」  隣の女性から2度も声をかけられて、やっと現実に戻った。思えば自分がチ ュ−リッヒに今回くることになったのはほかでもない、自分の学生時代のツケ を清算するためだったのだ。ウィ−ンでバイオリンを勉強するため留学し、そ こでチュ−リッヒから勉強に来ていた彼女と会ったのが、二人のスタ−トだっ た。僕が22歳、彼女は18歳だったとおもう。年よりは早熟で、実際はもっ と大人に見えた女(ひと)。レッスンが終わると、ドイツ語の練習と言って彼 女を誘って二人で外に出かけたものだった。  慌ててヴァイオリンケースのフタを閉めると取り繕ったような笑顔が口元に 浮かぶのが自分でもわかった。男は女性に席を勧めると何食わぬ顔をして話し 始めた。自分がいまでは音楽をやっていないこと、しかし音楽から離れられず 楽器商をしていること、チューリヒには仕事できたということ。あたりさわり のない程度の会話であった。話しながら男はどうしても彼女の瞳に目が吸い寄 せられていってしまう自分を押さえられなかった。似ているのである。自分が 20年前、チューリヒの置き去りにしてきたあの女性に。生き写しというわけで はないが瞳がどことなく似ているのである。そういえばあの女もじっと目を見 て話す癖があった。うなずきながらその女性は男の顔をじっと見ている。女性 といっても年のころは21,2であろうか。まだあどけない少女の面影がその顔の 輪郭に残っている。  ぎこちない二人の会話を車内アナウンスが遮った。まもなくチューリッヒで ある。膝においていたバイオリンケースを座席におろして下車する支度を始め た男を、娘は静かに見つめていた。どうやら娘はここでは降りないようだ。 「ど、どちらまで?」、ほとんど無意識のうちに、男は娘に訪ねていた。「ベ ルンです」。「ベルン?」。かつて男が恋人としばしば訪れた街だ。もう何年 も行っていない。時計台の近くで路面電車の停留所脇に、彼女がお気に入りア ンティークショップがあった。二人で覗いたショーウィンドウに映った恋人の 顔が目の前の彼女に重なった。男は動揺を隠せなかった。   なんとまっすぐな目で人を見つめる娘だろう) 男は狼狽しながらも、彼女 の瞳から自らの視線をはずすことができなかった。 なんとか落ち着きを取り 戻した男は話題を転じた。 「ところで日本語はどちらで?」 「神戸で。9歳のとき父親の仕事の関係で神戸に。18の年まで過ごしました。 父はポーランド生まれ、パリで母と出会いました。わたしはパリで生まれまし たが、フランス語は10代の終わりにブラッシュアップしたくらい。日本語は わたしにとってもうひとつの母国語。」 「道理で。」 二人の間にはじめて打ち解けた空気が漂い始めた。 「さて、お名残り惜しいが、わたしはここで失礼しなければ。」  ホームに降りると、なにげなく男は窓越しに娘の姿をさがした。すると彼女 もこちらを見ている。軽く会釈をすると男は振り払うかのようにきびすをかえ して外にでた。五月の街は日差しにあふれている。男はなぜかその日差しを避 けるように建物の影を選んで道を歩いていく。そしてふと立ち止まるとあたり を見回して路地に消えた。男が入ったのはその路地の奥の古いショーウィンド ウのある小さな店であった。ショーウィンドウの中には埃をかぶったをいつの ものかわからない楽器が並んでいる。  男が気にも留めない路地の向こう、スリット状に見える通りを、たった今買 ってもらったばかりなのか、渦巻きの綺麗なキャンディを振りながら、大きな リボンの髪飾りの少女が跳ねながら横切る。それを見守る両親も通る。恋人達 も。そして、今は観光用の黒い馬車も…。ただその音は、この店までは届かな い。  店に入ると呼び鈴がわりの大きなカウベルががらんと大きな音をひとつたて た。すると店の奥で何やら人の動く気配がする。 「誰じゃ」  「ヤーあ、おじさん、お久しぶりです。」男はことさら気軽な調子で話そう としていた。これから展開される場面を想像すると、思わず自分でも顔が引き 締まり、つばをごくんと飲み込む音まで聞こえた。「おじサンの捜していらっ しゃる楽器をお持ちしました。」 すでにかなり年をとった白髪のLuthierは薄 汚れた白衣を着て、木屑の散らばった机に向かって、木を削っていた。心持顔 を男のほうに向け、軽くうなずく。背中もかなり曲がり、客の姿もない寂しい このアトリエにいる姿は、なんとなく切ない気持ちにさせるが、男を一瞥した その目つきは、鋭いはっしとした光を放っていた。 老職人は、仕事の手を休めると、その目つきに相応しくなくぼそっと呟いた。 「アヤズパシャからボスポラスは見えたかい」 「いえ、生憎霧が出ていて」 一瞬時間が硬くなり、ゆっくりほぐれた。 「ん、おまえさんでいいようだな」 僅かに動かした唇だけの職業的な笑顔を返すと、眼鏡をずらし、組み立てかけ のバイオリンの底から、紙片を取り出し、男に渡した。 「ここでエージェントに会うといい」 「彼のコードネームは?」 「セネキオ、彼ではなく彼女だ」 「美人?」 「さ、どうかな、わしは知らん」 男はライターを取り出し、紙片に火を付けると、砥石の脇に置かれた水鉢にぽ いと投げ入れ、ドアの向こうの日差しに溶け込んでいった。  約束の時間までにはまだかなりあった。「少し旧市街をぶらぶらしてみては どうだ?」コードネーム・アルテマエストロは勧めてくれたが、今一つ気が進 まなかった。実際こんなにも何もかもがあの頃と変わっていないとは思わなか ったのだ。自分の気持ちに戸惑いながらリマト川沿いを足に任せて歩いている と、ふいに聖母寺院の鐘が鳴り始めた。「コレはいかん。」  今考えてみると何もかもが用意周到に仕組まれた罠だったような気がする。 20年前留学先のウィーンで何の疑いもなく毎日ヴァイオリンばかり弾いていた あの頃。。。『コンクールの順位なんて所詮楽器の善し悪しの順位なんだな』 と腐っていた私に『仮にもプロを目指すなら、もう少しまともな楽器を手に入 れてから出直して来い』と冷たく言い放ったアカデミーの教授。伴奏をしてく れていた鳶色の目をしたあの少女は、二人きりになった時に私の肩を抱いては らはらと涙を流してくれた。『亡くなった祖父の楽器。あなたになら貸してあ げるわ。弟がフルサイズを使えるようになるまでにはまだまだ何年もかかるだ ろうから』と飴色に輝くニッコロ・アマティを手渡してくれた彼女。その楽器 が盗品であるとわかったときには何もかもが終わっていた。しかし、人はあん なにまっすぐと相手の瞳をのぞき込みながら人を陥れることができるものだろ うか? (そう、あの眼だ) 男はひとりごちた。 テレーズはあれからぷっつりと消息を断った。あれほど自分にまとわりついて いた彼女が煙りのように消えた。東京ではあるまいし、あの街であのようにひ とりの人間が影も形もなくなるとは…。  しかし男は彼女の innocence は今でも疑うことはない。テレーズの貸して くれた楽器が盗品であったこと、それは事実、が今でも彼女の想いを疑うこと はない。  ただ、純粋とか無垢、そういったものが現実世界ではしばしば大きな混乱と 無秩序をもたらしていること、それは男がその後の生活から学習してきたこと である。 (あの眼、そういえば列車で会ったあの娘…) 「もーし、お若いの」 呼びとめる声に振り返ると、老婆がいた。 しかも2人… 双児である。  5月の夏を予感させる風が、長く幅広のレースのカーテンをなびかせ、甘い ミントシロップ入り炭酸水の、人工着色料とは分かっている緑色の液体を、目 蓋を半分閉じ、首を少し傾け、サマーチェアに沈みながら見るとはなしに眺め る女の栗色の髪に、触れて行く。  もうじきヴァカンスになれば、フランス国内のみならず近隣からも人が押し 寄せ、ここ南仏キャプ・ダグニュのパステルカラーのアパート群も普段と見紛 程の賑やかさを見せるだろう。今はまだ、繋留された様々なヨットたちが、ゆ らゆらと波にまかせてゆれている。  プーー、 、プーー、 、プーー、 、プーー、 ... 「 Allo! 」 「おばさま! 体調はどう?」 「カミーユ! あなたなの? あなたこそ...」 「おばさま、わたしこれからベルンに向かうわ。」  カミーユは何も知らない。果たしてあの子にスイス行きを勧めたのは無意識 にだったか、それとも...?  モンペリエ、アヴィニョン、ジュネーブ、ローザンヌ...ベルン。  550Km...。  テレーズはシトロエンBXのスターターキーを回し、ゆっくり車高の上がり切 るのを待つ。リアシートには、薄汚れたヴァイオリンケースを横たえて...。 「ばあさんたち!エドナにケート、こんなところで一体…」 「やっぱり、お前だ、サカキシロー」 「ぼんやり何をお考えだい?おおかた女のことだろ」  ひどい訛りの英語だ。  男はいまいましさをおくびにも出さず切り返す。 「それよりどうした、スイスくんだりまで、また流れの料理人に舞い戻ったか ?」 「馬鹿お言いでない侯爵様のお供さ」 「殿様は奥様をトスカナのお城にお残しなさっても、あたしらは世界中のどこ へでもお連れになる」 「あたしらの料理しか口にされんのさ」  双子とは不思議なものだ。一人でしゃべるべきことを同じ音色の声で、しか し微妙に異なる音程で矢継ぎ早にしゃべる。半音いや四分の一音か、奇妙なエ コーだ。 「希代の変人だな、フレスコバルディ侯爵…ところで例のものは?」 「酒かい」とエドナ。 「それとも銃かい」とケート、二人とも大袈裟な巻きスカートの中から出そう  とする。 「よさねーか、こんなところで。それよりまずカッテージパイとシチューだ」 「おあいにくさま、これからベルンまで殿様追い掛けてドライブさ。あたしら  はこの街で食材探しでね」 「そいつはちょうどいい。侯爵の顔も拝みたいし、相乗りとしよう」 「こっちこそ渡りに舟、ハンドルを頼むよ」  二人の後ろにはポルシェ911カレラが主人を待つ忠実なブラックレトリバー のように鈍い光りをはなって待っていた。二人は十字をきってから後部座席に 乗り込む。 「シートを下げるぜ。狭くないか?このケースは置けるよな。それよりなんの  まねだ、縁起でもない」 「おまえさんといると何か起こりそうでね」 「ひさしぶりにワクワクするよ、全く。エドナ、壜をおよこしよ」 「さて、ベルンまで後ろで一杯やっていくか」 「いい加減にしろよ、まったく。あんたらみたいな跳ね返りの海外活動家がい  たんじゃアダムズ党首も頭が痛いだろうよ」 「あんなヒヨッコにはまだまだ」 「あたしら二人は百年近く戦ってきたのさ」 「かなわねー、とにかく行くぜ」 エンジンが一吠えすると同時にタイヤが悲鳴をあげた。 「で、今度はなんだい。」 「ろくな用事じゃないだろう。」 後部座席でケートとエドナは同時に話し始めた。 「今度のブツはなんだい。さっきの路地から出て来たってことは・・・」 「アマティか」 「何でそれを知ってんだ。そうか、じいさんだな。」 男は目をむいた。 「けっけっけ。いったろ<食材>探しだって。食い物になりそうなもん探して  んだ。」 「一枚かませろよ。一匹狼じゃ荷が重いぜ。どうせベルンでエージェントに合 うんだろ。」 双子は同時にウインクしながらいった。 「そこまで知ってんのか。かなわねぇな。ばーさんたちには。でもな,こいつ  は一人でやりたいんだ。わけありでな。なんせ20年ぶりでよ.] 「何じゃつまらん。」 「勝手にやるといいさ。どうせわしらの助けが要る。」 双子たちはけっけっと笑いながら言った。 「でもさ、助かったぜ。ベルンへ行く列車の時間忘れててよ。」 「待っててやったんだよ。おまえさんはどっか抜けてるからな。足も用意して  な。」 「ところでどこで待ち合わせしてるんだ、ベルンの。」 「Kindlifresserbrunnen」 「時計塔のそばのか。食人鬼噴水とは穏やかじゃないね。」 「いっておくけど、ついてくんなよ。」 男がくぎをさすと双子たちは笑って取り合おうとしない。 「じゃあ、待ち合わせ場所なんて話すんじゃないよ。」 「もう一枚かんじまってるんだ、このまま乗せてきな。」 男は黙ってアクセルを踏んだ。  聴こえてくるのは水平対向6気筒のエンジン音だけになった。窓の外を流れ るのはスイスの風景、恐らくカルヴァンの時代からなにも変わっていない。 「いかにも退屈な国だな、このスイスって国は。一見したところだけだが…」  男が沈黙をやぶった。 「表向きはな… 『第三の男』にあったじゃろう」とケート。 「オーソン・ウェルズ扮する男が言いおった…」  エドナが言い終わらないうちに男がうける。 「メディチ家の独裁はルネサンスを産んだが、スイスの平和がもたらしたのは ポッポッポの鳩時計だけ…」 「さよう、しかしそれは表向きじゃ。スイスの銀行はユダヤ人たちから預かっ た資産をヒトラーがどんなに脅しても渡さんかった。しかし同時にナチがユダ ヤ人から奪った財産も預かり、つい最近までその事実も隠しておった」 「金に色はついておらんしの」 「ヤヌスじゃよ、二つの顔を備えた」 「そいつは金についてなのか、それともスイスのことか?」  男がさえぎった。 「さあね、まぁ金は善悪どちらでもないわさ。こいつと同じでね、手にする者 しだいさ」  そうつぶやきながらいつのまに取り出したのか、ケートは黒光りする銃身を なでまわしていた。 「こいつは圧制者の手伝いもすれば、自由を取り戻す手段ともなる」  男は黙ったままフロントガラスの向こう側を見つめた。規則的に見上げてい たルームミラーに、その時はじめて小さな黒い影が現れた。  それは後部座席の2人が、シートの狭さにブツブツ言いだしたときだった。 ポルシェの後部座席について、カタログにはこう書いてある。「お子様なら充 分のスペースがあります。大人でも短時間なら問題ありません」と。一般には ワン・マイル・シートと言われており、かまわず乗り込んできたことを後悔し 始める時間はすでに過ぎていた。男はとっさに3速にいれていたギアを、ニュ ートラルにするとダブルクラッチで2速にたたき込んだ。シフトが重くなり、 空ぶかしが足りなかったことを車は訴える。   完璧なシフトチェンジをしないと、ドライバーをあざ笑うかのように911 は拒否反応を示すのだ。一瞬男は「焼きが回ったか」とステアリングを握る力 が削がれてしまった。その間にもバックミラー越しに、背後の車は迫ってくる。 車種はなんだろう? 一見普通のセダンに見える。そう、あれはランチア・テー マだ。しかもフロントグリルの格子模様はタイプ8・32のものだ。8・32 とは8気筒32バルブのこと。この車は通常PRVの3.0L、V6エンジン を搭載しているがフェラーリ308の3.0Lエンジンを、無理矢理FFの狭 いエンジンルームに押し込んだモデルだ。最高速は220km位だろうか?い ずれにしてもリアシートに300ポンドの「荷物」を背負った911では引き 離すのは難しい。焼きが回ったと思ったのはそこまでの読みが一瞬のうちに計 算できなくて、無意味なシフトダウンをしたことも含んでいた。   市街地を抜けてしばらく過ぎていたので、対抗車はほとんどない。ややきつ めの右カーブにさしかかったところで、一度センターライン側へフェイントを した後、インへ回り込んだ。後ろの車からの死角に入ったところでフルブレー キ。ひと昔前のレーシングモデルのブレーキを装備した911の制動力はすさ まじい。右側ぎりぎりに停車させたその瞬間、うしろから悲鳴のようなタイヤ のスリップ音が聞こえた。   ギャ、ギャ、ギャ、ギャー   四輪すべてがロックしてしまい。911のリアに迫ってくる。もうぶつかる と思ったその瞬間。8・32のドライバーはブレーキをゆるめ、思いっきり左 に切った。フロントタイヤは突然グリップを回復し、リアの軽いFF車はテー ルを振られて90度以上スピンしてとまった。ガツンという鈍い音がしてフロ ントをガードレールにぶつけたことがわかった。   あたりは一瞬静粛になった。バサバサいう911のエンジン音と8・32の ラジエーターからシューシューという蒸気がもれる音が妙に大きく谷間に響い ていた。   男はアイドリングのままゆっくりと911のクラッチをつないだ。   首を左にむけると黒に近い濃いエンジの8.32のドアがあいてアラブ人風 の彫りの深い男の顔が目に入った。表情はなかった。目だけが鋭く光っている ような気がした。   プロのテクニックだった。車を911にぶつけてしまうこともできたはずで ある。そうすれば彼の目的の一部は達成できたろう。しかしそれをせずに自滅 することを「選んだ」のだ。単独行動ではないだろう。とすればむしろ今後こ ちらのミスをねらって彼の仲間が再び襲ってくるかもしれないのだ。   「まったくやっかいなことになったな」と悪態をついた。   そのときになってからやっと、リアシートから声が漏れはじめた。 「いててて…ただでさえ狭くてかなわんのに、まったくいきなりジェットコー スターやられちゃかなわないね!」と、実にたのしそうにケートが高笑い。 ところがこの双子、まったくの瓜二つのようでいて、そうでないところがたっ たの1ヶ所だけあったのだ。  …エドナは気絶していた。  クルマが止まってから何秒が過ぎただろう。男をわれにかえらせたの は、ウジの自動小銃の乾いた掃射音だった。 「来たか!」と思い、身をステアリングホイールに伏せたとき聞こえた の、は意外なことに聞き覚えのある声だった。 「観念おしよ! 坊やたち」 ポルシェのサンルーフから上半身をのりだし、ウジを2丁、両腕に構えて、仁 王立ちしていたのは、はたしてケートだった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  謎の男たちをランチァに閉じ込め、ドアをロックしたケート、 「さてと、キーはどうしたものかねー?」 「すべての鍵は森にあり、ってね」男は遥かな山に向かってキーを投げた。 「さあ、侯爵がお待ちだ」すっかり調子を取り戻したエドナに、 「ったく、肝心なときにねてて」ケートはおカンムリである。 「?まぁ、兄弟喧嘩はほどほどに」男はとりなす。 「That's a tough act to follow. (あれくらいやられちゃ、あとがやりにくいやね)」 谷間に911の乾いたエンジン音が響いた。ベルンまであと25キロ。 やがて後部座席では例によって、エドナとケートのおしゃべりが始まる。お国 訛りのイタリア語はほとんど理解不能だ。サカキは黙って知らんフリをしてい るが、周囲に追っ手の影がないかとチェックは怠らず、周到な計算をしている。 (この道路の混雑具合だとセネキオとの約束の6時ぎりぎりになってしまう。 だがKindlifresserbrunnen(食人鬼噴水)に直接向かう のは危険過ぎる、そうだ、フレスコバルディ侯爵の力を借りるとするか。オリ ーブオイルで有名な現在の地位からは想像も出来ないが、大戦中は欧州を又に かけた地下組織を持っていた男だ。どっちみちこの双子のばあさんたちをほっ たらかしにすることも出来まい。) 方針が決まったサカキはダビドフのミニシガリロをシガレットケースから取り 出すと、サンルーフを少し空けて一服はじめた。 サカキはどちらかというとキューバ産よりはドミニカ産のものを好む。しつこ さがないし、あたりはずれが少ないから性に会うのだ。コイーバ党などからは、 結構子供扱いもされるが、気にしない。 ふだんはじっくりと時間をかけて、お気に入りのNo.2をやるのだが、狭い車 内でしかも運転中にシガーカッターなんか取り出せないし、このタバコサイズ のシガーもどきをやる。葉の量が少ないから、辛くて口には合わないが、シガ レットの紙臭いものよりはましだ。 そうだ、あの女はどうしているだろう。チューリッヒ行きの車内で会った、じ っと相手の目を見て話す癖の、、、