「遅れてきた春」 0008
 ホームに降りると、なにげなく男は窓越しに娘の姿をさがした。すると彼女 もこちらを見ている。軽く会釈をすると男は振り払うかのようにきびすをかえ して外にでた。五月の街は日差しにあふれている。男はなぜかその日差しを避 けるように建物の影を選んで道を歩いていく。そしてふと立ち止まるとあたり を見回して路地に消えた。男が入ったのはその路地の奥の古いショーウィンド ウのある小さな店であった。ショーウィンドウの中には埃をかぶったをいつの ものかわからない楽器が並んでいる。  

 男が気にも留めない路地の向こう、スリット状に見える通りを、たった今買っ てもらったばかりなのか、渦巻きの綺麗なキャンディを振りながら、大きなリ ボンの髪飾りの少女が跳ねながら横切る。それを見守る両親も通る。恋人達も。 そして、今は観光用の黒い馬車も…。ただその音は、この店までは届かない。  

 店に入ると呼び鈴がわりの大きなカウベルががらんと大きな音をひとつたてた。すると店の奥で何やら人の動く気配がする。
「誰じゃ」