放物線と接線への思い
本稿は、岡田会事務局がまとめたものです。 「なぜ、放物線なんだい」 「接線は、何本引くのが一番よいか」 「数学の『線』だから、細いのが当然」「それは、違う」などなど。 岡田章先生の顕彰碑のデザインを決めるに当たって、こんな議論が岡田会のなかで交わされました。メールや電話、準備会では、フェイストウフェイスで。熱い、熱い。秘められた情熱。高校時代の岡田数学の授業さながら、でした。以下、その概要です。
岡田先生の追悼集刊行会より引継ぎを受けた時、岡田会としてまず考えたのは、これから、何をするのか、会をどのように運営していくのか、ということでした。「オカダ基金をつくり、東南アジアに学校を作ったら」「数学教育のスカラーシップは?」「日比谷高校に、なにかモニュメントを立てられないかな」など、いろいろな意見がでました。 しかし、とにかく最低限しなければいけないこと、ボトム・ラインは、「年に一度、ご命日前後に墓参をし、懇親の集いを持つこと」という点に意見は集約されていきました。まずは基本を大切に、というわけです。
そうなると、引き継いだ浄財をどのように使うか、という点についても、結論は速いでした。「先生の墓所に、顕彰碑を建てよう」という案が、実現可能な最良の策として、みんなの心に、すうっと落ちたのです。 具体案についての話し合いは、昨年(2007年)秋から今年の秋まで、足掛け二年にわたって続きました。 顕彰碑の主文をどうするか。これは、全員一致で、はやばやと決まりました。「前半ヨシ 後半ヨシ 合わせて マチガイ」。追悼集のタイトルにもなった先生のお言葉です。書体は、表紙のあのカク、カクッとしたゴシック体をそのまま使おう。お名前は、年賀状に署名された先生のご自筆を。碑の裏には、そのあたりの経緯やご経歴、先生のお人柄をまとめた文を彫ろう―――。 顕彰碑の材質は、なにが良いか。現代風の透明なものはどうか。金属製は?いろいろ出ましたが、「後世に長く残ること。そうなれば、オーソドックスに、石碑がいい」というKO先生のお言葉で、決まりとなりました。 このあたりで、昨年は墓参の時期となり、時間切れ。議論は今年に持ち越されました。いよいよ、顕彰碑表のデザインです。
< 原案 > 昨年秋の準備会に、KSさん(第二高女)が、ある図案を提出されました。放物線の開口部が左にくるように横に組み、画面右を、無数の接線で網の目のように覆ったものです。ご出身の東京女子大学数学科の50周年記念プログラムの表紙で、KSさんが、お友達と一緒にデザインされたとのこと。「岡田先生が、東女にいたご自分の恩師を紹介して下さったことが縁になり、数学を勉強し、それを活かした仕事をするようになりました。プログラムは、数学を表す象徴として、放物線や接線を取り上げました。石碑では、放物線を縦にし、開口部に碑文やお名前を入れたらどうでしょうか。今なら、コンピューターで図面も上手に引けると思いますし」とKSさん。
< 数理曲線 > KSさんの提案は、「なかなかいい。その線でいったらどうか」(ST先生)と好評でした。しかし、ほんとうに、それでいくのか。「他策なかりし」(陸奥宗光)と言えるのか。半年後に準備を再開した時点で、事務局には、まだ迷いがありました。 そんなころ、HCさんから、興味深い案内が、岡田会世話人にありました。 HCさんの勤務先のベネッセ教育研究開発センターと、慶応義塾大学の佐藤雅彦(NHKのピタゴラスイッチで知られている)研究室の共同開発で、「日常にひそむ数理曲線」という短編映像を制作、その上映会の案内でした。歩行や自転車など、私たちの日常の動きは、じつは、「目に見えない秩序や法則によって起きて」(案内メールより)おり、それは美しい数理曲線を構成していることを、映像で表現したというのです。 8月下旬、初台の東京オペラシティの上映会場へ行ったTSさん、とても面白かったそうです。帰宅後、あらためて、数理曲線や円錐との関係について調べ、円、楕円、双曲線、放物線を逐次検討。「放物線には、他にない動きと迫力がある。石碑にはこれがいいと、なんとなく思っていたのが、確信に変わった」。 KO先生も、「少し蛇足をつけ加えるならば、二次函数とそのグラフ(放物線)が一躍中等教育の数学の主役(の一つ)となるのは,わが国では昭和17年の教授要目の改正からで,岡田先生が数学を教えられたのは,館林での一年間を除けば,昭和17年以降ですから,石碑表面の放物線の図は,そういう意味でも岡田先生が教えられた数学の主たる内容(の一つ)と関わっています」と指摘されました。
< 弾道計算 > このメールを読んだSSさん、「蛇足に反応してしまって、蛇の道なのかも知れませんが、日比谷高校で物理を教わった加川先生が、『我々の頃は戦時中だったので、この計算ばかり・・・』と、よく仰っていましたが、これは、砲弾の弾道計算、最大射程距離等の計算と関わりがあってのことなのでしょうか?」とKO先生に質問。次のようなお答えがありました。 ―――加川先生は戦時中の一時期海軍におられましたから,あるいは弾道計算をなさったかと思いますが,小生は加川先生から戦時中海軍でなさったことについて伺った記憶はありません。 弾丸を点(質点)と考え,空気の抵抗等を無視するならば,ニュートンの運動の法則から簡単な数学的処理によって,弾丸の軌道が放物線(正確にいうならば,「放物線の弧」というべきでしょうが)になることが導かれます。しかし,弾丸の形状や大きさ,空気の抵抗等を考慮に入れると,数学的処理は難しく,どうしても数値計算に頼らざるを得なくなります。1940年代は,せいぜい手動の計算機械を用いて,厖大な数値計算を行い,弾道の解析を行っていました。(実際に大砲を発射して試験してみると,数値解析の結果とは多少違うこともあったということを,当時陸軍で弾道の研究をされていた方から伺ったことがあります)。 ヨーロッパでは,近世以来,大砲が戦争で使用されたこともあって,弾道学についてはいろいろと研究されてきました。何人もの高名な数学者が,多くは応用数学の立場から,弾道学に関わる論文を残しています。大砲は長い間,その当時の最新の科学と技術を利用した兵器でした。 これに対して日本では,幕末あるいは明治初期にいたるまで,弾道学に関する研究はほとんどなかったといってよいと思います。これは日本の江戸時代は平和で,大砲を用いての戦争がなかったことによるのかもしれません。明治以降も,陸軍では,砲兵は数学や物理の知識が必要と考えていたようです。そのため,岡田先生は,徴兵検査の結果は「砲兵」であったと伺ったことがあります。
< 山か谷か > さて、9月初めに開かれた準備会では、こうした経緯から、次のような叩き台の案が事務局から用意されました。 放物線の形は、開口部を上に、つまり、天に向け、全体では、谷を構成する。接線は、頂点、即ち、画面下に一本だけ。X軸に平行なこの接線は、いわば、地を表して入る、というわけ。そして、頂点の位置を中央からずらすことによって、放物線を左右対称ではない、動きのあるものにする、という図案です。 準備会では、これに対し、YA先生が、「放物線は、物を投げたときに出来る軌跡というのが、基本のイメージ。その頂点を一番上にもってくれば、接線は、上方向に向ってすっと伸びる。山型の放物線を、岡田先生にたとえれば、接線は、先生と接点をもった生徒を象徴し、それが果てしなく上に向って飛び出していくように見える」とのご意見を表明。「おお! その方がいい」ということになったのです。 こうして、放物線を山型とする。その頂点を、画面右側もっていき、開口部が、左右対称にならないようにする。接線は、画面左方に引き、タイトルとお名前を開口部内に置く、というデザインが、確定しました。
< 接線の数 > 実際に石を刻むことになる得生院(岡田先生の菩提寺)ゆかりの石屋さんの言により、網の目のように無数の線を深くきっちり彫るのは、技術的に難しいことがわかり、数は、多くても5、6本ということから、この準備会の後、検討が始まりました。 「私としては、マックス3本。2本でもいいのではないか、という感じです」 「もう1本追加し、2本にしてはどうでしょうか? 左の辺で1本の接線から7.5cm上部を基点とする接線を入れたらいかがでしょうか?」 「何にしても、何故2本なのか、もちろんこじつけでも、そこの所を語られると、なるほど、と微笑む方も生まれるものと思います」 「画面左上部の空間処理には、ある程度、線があった方がいいのでは?」 「山にも見える放物線は、山に喩えるのも叶いそうな岡田先生、それに接する、私達=1本の線、は上に伸びんとす、ということにしてしまうのも悪くない気がしています」。 そんな議論が、メールで続きましたが、YA先生の、次の長文のご意見により、決着がつきました。 ―――接線は、一本でよいのではないか、と思います。いや、一本がよいのではないか、と考えます。 一つには、その一本の線が、一人一人の思いを表すことができるからです。二本となると、その二本の間の違いを意識させます。その違いの意味を、どうしても、考えさせることになります。もし、直線に「教え子」の象徴を見るとすれば、ますます、そのように誘って行くことになると思います。 それぞれが、自らが同化する一本の線と、岡田先生とのかかわりを、思い描くことを促すということで、それで良いのではないか、と思います。 確かに、多くの人々を表すには、多数の直線が欲しいということにもなるかもしれません。先生との多種多様な出会いと交わりを象徴する多様な直線が欲しいというお気持ちもわかるようには思います。しかし、それならば、その一本の直線が無数の直線を表している、と理解したらどうでしょうか。・・・一本であることで、関わりを持つことになった総ての人の関わりのあり方の共通性と普遍性を、その一本が簡潔に凝縮して表現しきっている、と考えてはどうでしょうか。いわば、俳句の精神です。いかがでしょうか。
< バランス > 「山型の放物線に、接線を一本」を基本に、どのような最終図面を作成するか。事務局では、放物線は、「部位の取り方によって、あらゆる放物線が描ける」というSAさんの言により、元図を、いろいろな倍率でコピーし、案を練りました。 「接線を1本にして、バックを黒御影らしくして、彫り物風にしてみたものを添付します」 「石碑全体のバランスからして、タイトルの文字を、もう少し、小さくしたほうがよいのでは?」 「放物線の焦点を移動して、もう少し鋭角な放物線ではなく、平たく横広がりな曲線にしてみてはどうでしょうか」 「放物線の出発点は、画面右下角。それによって、線に力がでる」 「タイトルとお名前の三行全体を、このままの大きさ、バランス、間隔で、すこうし、左にずらしたら、どうでしょうか。このままでは、石の右端と、字の間の空間が、ちょっと少ないのではないか、と思いました。 具体的には、タイトル第一行『前半ヨシ・・・』の行の中央を通る垂線、接線が石を突き抜けるT点より落下する垂線、放物線の頂点をとおる垂線という三本が、一致または、近接した位置に置かれることによって、見る者は、無意識に、タイトル第一行、放物線の頂点、T点が一つの柱となって感じられ、ある種の高さ、崇高さを感じられるのではないでしょうか?(この部分、原メールを一部修正)」 そんなやり取りの後に、SSさんがまとめたのが、石碑表のデザインの原図です。
< 線は細いか、太いか > SSさんが、最初に世話人一同へ添付ファイルした図面の線は、細めでした。そして、メールに「元々数学的には太さを持たないのが『線』ですから、石屋さんには、可能な限り細くやって欲しい気もしますが、余り細いと耐久性が無くなるのかしら? それともそれは深さで補えるのかしら?」と書いてありました。 ここで、論争に火がつきます。 まず、KO先生です。 ―――案に示された図よりは放物線と直線を少し太くするほうがよいかと思います。ユークリッドの『原論』第1巻冒頭の定義の第二番目は「線とは幅のない長さである」ですが,これは数学(幾何学)の世界での線(イデアとしての線)について述べたものですから,現実の世界の図形,ことに,石碑に記し,長い間にわたって見ることができるということを考えると,ある程度の太さにするほうがよろしいかと思います。 そして、YA先生。 ―――放物線と直線について、太くてよいことの論拠だけ、加えさせていただきます。中学校などで、教えるときに、尋ねることがあります。「皆さんは、直線を見たことがありますか?」と。直線は、太さが無い、と教科書にあることに対する疑問です。円も放物線も、おなじです。「見たことがある」という生徒には、「どこで?」と尋ね、「教科書で」と答えると、「太さがあるから、あれは直線ではないのではないか?」と疑問を呈します。 私の答えはこうです。「太さの無い直線は、見えるはずがない。では、教科書に書いてある直線は何なのか。これは、直線の絵なのです。そもそも、直線はどこまで行っても続くものです。直線をどこか一点でスパッと切れば、半直線になります。そして、その一点から少し離れたところで切れば、線分になります。教科書に書いてあるのは、線分じゃないですか。いや、線分にしても、太さがあるから、線分ですらないのじゃないかな。 だから、直線は、教科書の一ページには、そのままでは、長さの点から言っても、太さの点から言っても、絶対に描けないのです。でも、一ページに、富士山の絵なら、描けるでしょう。富士山の絵をみて、それが富士山だと思う人はいないでしょう。でも、その絵を見て、私たちは、富士山のことを思い描くことができるのでしょう。 それと同じように、教科書に書いてあるのは、そして、皆さんが描くのは、目に見えない無限の長さのある太さの無い直線の絵なのです。だから、短くて、太さがあっても、それは、直線の絵なのです。そして、その直線の絵を見ながら、無限の長さの太さのない直線を思い描くのが、数学で学ぶ直線なのです。」というような具合です。 KO先生がおっしゃった「イデア」ということを、あるいは、裏側から語ったことになるでしょうか。で、結論。石碑の放物線もそれに接する直線も、何の遠慮も無く、しっかりとした、どっしりとした太い線で、しかし、ある限度内の太さで、くっきりと鮮やかに描いていただけばよいのだ、と考えます。無理に、遠慮して、細くする必要は、全くありません。太く描こうと、どれだけ細く描こうと、どちらにせよ、放物線、直線、それぞれの絵は、放物線や直線そのものではありえないのですから。 両先生のご指摘に対して、SSさん。 ―――感覚的人間のうちでは、論理的な方なのですが、それでもやはり基本は感覚的、主観的人間なので、実に言葉足らずで、自分のイメージする「細さ」を伝えることができませんでした。おまけに、ほんの添え言のつもりで軽率に数学的定義などを持ち出してしまったものだから、両先生にはご迷惑をおかけしてしまったかも知れないと反省しています。どうぞご容赦下さい。 「ある限度内の太さで、くっきりと鮮やかに描いていただけばよいのだ」とYA先生が書かかれたことが、僕のイメージする「細さ」そのものです。太かろうが、細かろうが、数学的には放物線でも直線でもあり得ない訳ですから、視覚的には「線」を感じさせる、「ある限度内の太さのくっきりと鮮やかな」彫刻的「線」を技術的な面、耐久性の面もありましょうから、石屋さんと相談の上、「しっかり、どっしり」と彫って貰えればと思いました。 この件について、SSさんは、TSさんに電話口で、「でも、線は線。棒じゃないんだよね」と言ったそうです。 では、しっかりと彫られても、棒の印象は与えず、明確に線をイメージさせるには、どうしたらよいか。SSさんも、TSさんも、期せずして一致したのが、V字型に彫ったどうか、ということでした。「V字なら、太くても、鋭さ、細さが視覚的に叶う。小学校の時に使った彫刻刀の事を思い出しながら、自分だったら、こうしたい時にどの刃の一本を使うか、それを考えていました」とSSさん。 というわけで、V字型のアイデアをふくめ、「しっかりと、鋭く」彫ってくださるよう、得生院墓地の墓石等を扱っている石亀商店と石屋さんにお願いし、「現在の石碑の彫刻は、吹き付けによるため、V字型の線は無理だが、申し入れを極力活かすようにしたい」といったご返事をいただきました。
2008年10月27日 記
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