「万華鏡を覗いたら・・・思い出・数学・哲学・必要条件・詩・・・」
吉田 章宏 当会事務局がまとめ、吉田先生のご高閲を賜っています。 < 思い出 > 岡田章先生のご縁で、こんな風にして、このように集まって、お話が出来るということを、不思議なご縁だと思います。そして、有り難いことだなあ、と私は思っております。皆さまにもそう思っていただきたいな、とも思っています。 初めに、この話を考えるのに、連想というか、いろいろと思い起こすところを辿ってみました。 日比谷の同窓生に上条文夫さんという東大の天文学の先生だった友人がいます。彼と私と二人で、岡田先生に誘われて、京都と奈良の旅行に行きました。日比谷高校の3年生の修学旅行のバスの列のあとを先生の愛車ナッシュで追って行ったのでした。確か、ふた晩、毛布に包まってナッシュ車中で泊まりました。日比谷高校の修学旅行の京都の宿の近くの路上、それから、名古屋駅の前の広い駐車場に車を停めて、泊まったりしました。 先生に、映画に連れていっていただいたこともありました。それから、泉鏡花の「婦系図」の新派劇を見に連れて行っていただいたこと。ロマン・ローランのジャン・クリストフのこと、ご一緒した「煉瓦亭」、「三州屋」、「駒形どぜう」、本郷、六本木、・・・のことなども、思い出されます。 先生の清和寮のお部屋では、当時の私には、たいへん珍しかったフィリップスの大きなオールウェーヴ・ラジオと、むき出しのプレーヤーで、ドイッチェ・グラマフォンのレコード――黄色地に黒字のLPでしたね――を聴かせていただきました。岡田先生は、音楽がたいへんお好きでした。私も先生に憧れて音楽が好きになったようなところもあるなあ、といま思います。数学者の方々には音楽好きな方が多いようですね。経験的印象ですが、そう思います。厳密で美しいという点に、共通性があるのかな、などとも思います。 それから、日比谷での数学の授業での生徒さんの解答は、それぞれの作品だという風におっしゃって、生徒さん一人ひとりが自分の答案を書いた黒板の脇に立っている姿、それを先生がオリンパスペンで写真に撮って、そうした写真をバッグに沢山、大切に持っていらした。それを見せてくださって、一枚一枚ご説明いただいたことを思い出します。 私は、昭和25年度、高校一年の時、一年間だけ数学を教えていただいたのですけれど、藁半紙八分の一ほどのもので毎回小テストというものがありました。というようなことも思い出されてきます。先生は、生徒一人ひとりの心を実によくつかんでいらしたと思います。一人ひとりをよく見ておられて、生徒一人ひとりに必ず発言の機会がある、という授業でした。私はそれを今も、真似させていただいているんです。 敗戦というか、戦争のことについても、よく話してくださったと思います。清和寮に伺った時に、太平洋戦史の本を何冊も、積んで読んでいらしたことも思い出します。それから旧制高等学校への思い入れが深い先生でいらしたなあと思います。夭逝した数学の天才エヴァリスト・ガロア(レオポルト・インフェルト著、市井三郎訳『神々の愛でし人:世紀の数学者エヴァリスト・ガロアの生涯』日本評論社、1950年、を参照。最近、再版されたのを見た。)や、パリのエコール・ノルマル・スペリオール(国立高等師範学校)の話をしてくださいました。先生は、フランス文化が大変お好きだったような印象を受けています。フランス語が厳密であるということ、数学の厳密さということ、この間にはつながりがあるということも、お話しになりました。「厳密」という言葉を、独特のアクセントとリズムと高低をつけたお声で、強調なさっておいでだったことが、思い出されます。「厳密」ということがとてもお好きでいらしたこと。などなど、次々に思い出されてきて、話し出すときりがありません。 私にとっては、先生は、高校一年のときの、クラス担任だったわけでもないし、週に一時間くらいの授業を教えていただいたという、ただそれだけの出会いに終わっても、不思議はなかったのではないか、とも思えるのです。ですが、その一年間教えていただいたことが、それに続く長いご縁の始まりとなったのです。そして、こんな風に思いだすことがきりなくあるということ自体が、我ながら不思議な感じがしております。その出会いから先生との一生の交流の長い歴史が生まれたのです。先生に導き入れていただいた世界は、抽象的な言葉でまとめてみると、厳密な数学の世界、その美しさへのあこがれの世界、無私の心の世界、などでしょうか。それから、挫折への励まし、私は何回も挫折しているものですから、挫折のたびに先生に励ましをいただいたということも、忘れられません。こうして、先生に導いていただいた世界は、濁りのない澄んだ世界だったなあ、と思い返してみて、改めて思うのです。 個人的なことですが、受験雑誌の『蛍雪時代』(旺文社)に数学の「添削教室」というのがあり、それに答案を書いて出しましたら、私の拙いペン書きのその答案が、当時受験界で有名だった広島大学の数学の教授による朱入りの添削を受けて、『蛍雪時代』にそのまま印刷されて載ったことがあるのです。それは難しい問題で、普段よりも、答案投稿者が少なかった、とのことでした。そして、その添削で、その広島大学の先生が、私の答案をとても褒めてくださってあったのです。雑誌に載ったのが生まれて初めての経験だったので、うれしくなって清和寮の岡田先生のところに持って行って見ていただいたら、一緒になって、とても喜んでくだいました。いま懐かしく思い出されました。50年以上も昔のことで、すっかり忘れていたのですが。 < 数学 > 私は、いまは、心理学というものをやっていまして、人間の生きる世界ということに関心があるわけですけれど、生きる世界はいろんな下位世界に区分することもできるわけです。例えば、「現実の世界」と「想像の世界」と「象徴の世界」という区分もできます。それから、「現実性の世界」と「可能性の世界」と「必然性の世界」という区分も、もう一つできます。思い返してみましたら、そのことを初めて考えるようになったのは、高校一年の数学だったのです。これは、岡田先生とご縁のある数学の話ですので、先生ゆかりの皆さんと共通の関心の中に収まるかなと思い、思い出したことを、メモに用意してきました。 私は、当時(昭和22年に)生まれたばかりの、千代田区立の今川中学校という新制中学の出身でした。都立日比谷高校は、新制中学が生まれる前の旧制中学(都立一中)が昇格して出来たばかりの新制高校だったのです。旧制高校は新制大学に、例えば、旧制の第一高等学校は新制大学としての東京大学教養学部に、昇格します。その新制高校としての日比谷の最初の高校一年生として、入学した学年に、私は属していました。一年上級の先輩たちは、旧制一中の水準の高い教育を受けていた方々でした。で、私達は、すべてにおいて、たいへん遅れていたのでした。少なくとも、私自身はそうでした。たとえば、今考えてみると、新制高校一年生の初めの当時、私が理解していた数学は、算術の延長としての数学で、鶴亀算とか、ああいったものの延長としてしか、数学を理解していませんでした。 高校一年になって最初のころ、 ax + b = 0 というのを岡田先生に習ったのですね。 数字や記号の使い方は、新制中学で既に学んで、分かっていますから、私は、簡単に考えて、 x = − というので、総て済むものと思っていたわけです。ところが岡田先生のお教えになるのは、 a が 0でない時は x = − a が 0 の時は、b = 0 ならば x は不定、 b = 0 でなければ不能、解は存在しない、というのです。 これを初めて教えられ、中学の時の数学と高校の数学は、根底から違うのだということを、思い知らされました。これが、日比谷で受けた、最初に受けたショックだったか思います。 当時の私には、特に、このなかの、[ b = 0 ならば x は不定 ]というのが、どういう意味か、どうしてもわからなかった。 [a が 0 で、 b が 0 ならば x が不定]というのを、私は [
[ x が不定
]ということであり、[ x = − ところが、私は、中学の数学をひきずっていたので、それもわからないまま、済ませていたのでした。 aが 0 の時、 0 でない時 というのを、そもそも0 でない数はいくつも無数にあるのに、なんでたった一つだけ、つまり、a = 0 の時だけをそんなに特別に取り上げて問題にしなければならないのか、そこのところがさっぱりわからなくて驚きだったこと、こんなことを思い出しました。これは、考えてみると、可能性を考えるということ、稀なる現実性を含めた総ての現実性に向って備えるということ、そして、そのために、必然性をつかむということ、そういうことに関わっているのだな、と後になって、思うのです。 つまり、中学の時は、
a というのは、何でも良い何らか数の代わりに a と書いてある、という理解にすぎなかったのです。代入ということは理解していたと思いますが・・・。 aが 0 になるという稀な可能性については、全く考えていなかったわけですね。 ところが、極めて稀ではあるが、しかし、重大な場合に着眼して、aが 0 であるという場合について考えなければならない。つまり、総ての可能性を考えるということをここで学んでいるわけです。無限にある可能性の中には、aが 0 になる場合がある、そして、それは、総ての無限の可能性の中でも、非常に重大な場合である。0 では、他の総ての数と同じようには、割り算が出来ないからです。それは、0 を掛けると、どんな数でも、0 になってしまうはずだからです。そこに、仮にもし、0 でない数がb として、でーんと控えていたとしたら、割り算をするということが、そもそも成り立たなくなる。だから「x の解を求めることは出来ない、つまり、不能である」というわけです。aと b という文字で書かれている式では、直接には、そのことが見えにくくなっているのですね。ところで、a がとりうる無限にある数の中で、大変な事が起こる特異な場合があり、それが、a が0 になる場合なのですから、そうした極めて稀な例外的な場合ではあるけれど、しかし、その決定的な大切な場合についてよく考えて、普段から、それに対して、しっかりと備えなければいけない。 さらに、それだけではなくて
b が 0 になる場合もあり、b が 0 でない場合もある。その場合に解があったり無かったりということ、つまり、そこでも、大変な重大事件が起こるわけで、そういう必然性を掴むということを、ここで初めて学んだことになったのだ、と後になって、気がついたのでした。 < 哲学 > 「数学の世界」から「哲学の世界」に転じたフッサールという現象学の始祖と呼ばれた人がいるのですが、フッサールの哲学を学ぶようになってから、岡田先生に教えていただいた数学の世界、先生に導き入れていただいた数学の世界と、フッサール哲学の世界との繋がりが見えてきたのです。 数学で三角形の条件を満たしていれば、どんな形のものでも三角形としてのある不変の性質が、したがって、普遍的な性質が、例えば、「内角の和はπである」という性質などが、抽出できるといこと、フッサールの現象学の考え方は、例えばそうしたことに似ているんです。フッサールの発想は数学からきていることは間違いない、と私は思います。 フッサールという人は、数学に育まれた考え方に基づいて人間の経験や意識というものを考えることをしているわけですが、これは、数学の考え方というものが、決して数学の世界に終わるのではない、ということを意味している、と私には思われます。数学の基礎は、物事を、岡田先生の大好きな厳密というか、丁寧に考えるということにある。少なくとも、フッサールの哲学は、数学なしには考えられない、と私は思います。それは、数の計算をしているのではない。現象学は、物事を丁寧に厳密に、あらゆる可能性を考える、そういう哲学なのだ、ということです。それが精神医学やら社会学、心理学にまでその影響が及んでいくわけです。私は、心理学のなかで、現象学的心理学を学んでいるのですが、そういう繋がりが見えてきたことにより、私の中では、教えていただいた数学から始まって、岡田先生に、延々と、一生お世話になっているような思いさえも、今、してきました。 私は今、七十三歳ですが、心理学で、人間の経験のこまごましたことをやりますと、いつまでたってもきりがない、ということもあるものです。そこで、視点を大きく転換して、少し自分の経験を踏まえて、色々な物事の多種多様な経験の繋がりを構造的に捉えてみようと、今、し始めているところです。自分では、なかなか面白いと思っているのです。それは、先ほど申し上げた想像界、現実界、象徴界の相互関係や、必然性、偶然性、現実性の関係とか、などなどです。例えばフッサールで言えば、経験の本質を捉えるのに、現実の経験に発して、それに加えて、自由想像変更というのをいたします。つまり、現実から出発して、自由に、あらゆる場合に拡げて想像して行って、いろんな可能な場合を総て考える。そして、その考えた総ての場合を通して、ある不変な側面、性質、特徴、契機などをとらえる、それを「本質」として抽出する。そういう考え方をするんですね。そのようにして、数学と現象学とは、その考え方の根底で、互いに繋がっているのです。 < 十分条件と必要条件 > ここで、必要・十分条件について考えてみたいと思います。十分条件と必要条件の峻別ということは、新制中学からきたばかりの生徒たちにはわかりにくいことだったのでしょう、岡田先生は、この十分条件と必要条件について、繰り返し、繰り返し、よくお話なさったことでした。 [ Aならば、必ず B である ]ということから、十分条件、必要条件ということが生まれてくる。 例えば、「岡田会に集まれば(Aならば)、必ず飲む(必ず
B である)」。この命題が、仮に正しいとしましょう。すると、その時、A が十分条件、B が必要条件となります。「Aならば、必ず B である」、その時、A は B の十分条件なんですね。ここで、「必ず」ということがとても大事です。すると、Bは Aの必要条件なんですね ・・・だと思うのですが、もし、この解釈が間違っていたら、どうぞ、どなたでも、そうおっしゃってください。 岡田会に集まるというのが十分条件で、岡田会に集まれば必ず飲むのだから、岡田会に集まることは、飲むことの十分条件なんですね。ならば、B は A の必要条件なのですね。「飲む」というのは「岡田会であること」の必要条件。ここのところが、言葉だけで受け取ると、どうしてそうなのか、高校一年くらいだと、わかりにくいところなんですね。 岡田会に集まれば「必ず」飲むのだから、飲まないと岡田会にならない。つまり岡田会であるためには、飲むことが必要条件なのです。だからといって、飲めば岡田会になるわけでは必ずしもない。飲んだから岡田会だろうかと思ったらそれは違う会だったということも起こり得る。飲むのは岡田会だけではない、我々は岡田会以外でもどこかで飲んでいる。岡田会に集まるというのが十分条件で、飲むというのが必要条件と、そういうことじゃないか、とこう思ったのです。はっ、はっ、はっ、・・・。 必要条件と十分条件って、直ぐには分かりにくいですね。この世の中では、二つの間を間違える人々や、間違える場合が、よくあります。とても大事な区別ですね。 必要条件とは、これは十分条件が満たされれば、「必ず」そうなるということ、そういうことかと思います。集合論で言えば、例えば、Aという出来事の集合(岡田会の集まりという出来事の集合)と、Bという出来事の集合(飲むという出来事の集合)を考えるとき、「必ず飲む」というのですから、AがBの中にすっぽりと含まれてしまう、わけです。問題は、Aであるが、Bではない、という出来事があるかどうか、です。「岡田会の集まり」であるが「飲まない集まり」が有るのか無いのかという話になるのだと思うのです。どうでしょうか?そこに、「必ず」ということが、効いてくるわけです。ついでに言えば、「岡田会以外では絶対に飲まず、岡田会では必ず飲む」ということであれば、「岡田会に集まること」と「飲むこと」とは、どちらから言っても、十分条件でも必要条件でもありますから、「必要十分条件」ということになりますね。 < 詩 > 最後に、詩と数学について。さきほどお話した音楽と同じように、詩と数学にも同型性があります。Scott Buchananいう人の“Poetry and Mathematics”1929という有名な本があります。この本のなかで、ブキャナンは、人間の教養を広げるには、いろいろなことの間には、お互いに対応する比例関係がある、ということに気づくことが大事だ、と説いています。すぐには気がつかないようなものの間に、非常に重要で本質的な同型性があることに気づくことが大切だ、ということを書いていることになります。彼は、同型性(あるいは、準同型性)、(isomorphism/ homomorphism)と言わずに、「比例」(proportion)、と書いていましたが、同じことです。類比、比喩、アナロジーなどの問題でもあります。さて、私は、何時のころか忘れましたが、あるとき、数学には、同型性の追究というか、準同型性も含めて、構造を明らかにするという、少なくともそういう側面があることに気づくようになりました。ブルバキから構造主義に繋がっていく考え方です。そして、詩にも、物事、あるいは物事の経験の本質的な構造を示すという特質があるのかな、と思うようになりました。ですから、数学と詩の間には、同型性があるということになるのではないか、と思うようにもなったのです。ここで、好きな詩をまずひとつ、挙げます。 To see a World in a Grain of Sand And a Heaven in a Wild Flower, Hold Infinity in the palm of your hand And Eternity in an hour. From “Auguries of Innocence”
by William Blake (1757-1827) ひと粒の砂のうちに 世界を見、 一輪の野花のうちに 天国を見る。 そのために、汝の掌のうちに 無限を、 一刻のうちに 永遠を つかめ。 ( ウィリアム・ブレイク「無垢の前兆」より、吉田章宏試訳 ) これはとても数学的な感じがするのですね。ウィリアム・ブレイクの詩ですが、初めて接した時から、確かに素晴らしい詩なのだと思っていたのですが、数学が、ズバッと本質としての同型性をつかむ時の掴み方と、非常に共通するものが、この詩にはあるのではないか、と私は思います。 この機会にと思い、いくつかの詩を用意してきました。ご紹介してみます。 良寛さんの辞世の句、御存じかと思います。接するうちに、好きになりました。 うらをみせ おもてをみせて ちるもみじ 裏を見せ 表を見せて 散る紅葉 短い言葉で、まあ、素敵にズバッと表現するものですね。 実は、良寛さんには、辞世といわれるものが二つあるらしいのですね。本当の辞世は、どちらか私にはわからないのですが。貞心尼に、亡くなるときにつぶやいたというようなことが伝えられています。それがどちらなのか、素人の私には、よくはわかりませんけれども、もうひとつのは、こうです。 ちるさくら のこるさくらも ちるさくら 散る桜 残る桜も 散る桜 というのですね。良寛さんには申し訳ないのですが、せっかくですから、お許しをいただいて、「桜」を「もみじ」に変えてみると、 ちるもみじ のこるもみじも ちるもみじ 散る紅葉 残る紅葉も 散る紅葉 となります。素人考えでいうと、短い中に、同じ「もみじ」という言葉を三つも使うのはきっと下手だということになり、普通は、繰り返しを避けようとするのでしょうが、良寛さんの歌だ、となると、また格別なのでしょうか・・・。私は「もみじ」に変えた方を、あるところで、使わせていただこうと思っているのですが、・・・。 岡田先生に導いていただいた数学、音楽、詩の中に潜んでいる数学の心といいますか、美の世界、構造というのがありました。ご縁がありまして、寺田寅彦先生のお弟子さんに親しくしていただくようになりました。そのこともありまして、私が好きな文章があります。詩文というのでしょうか、これも、ここでご紹介します。 日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ1枚のガラス板で仕切られている。 このガラスは。初めから曇っていることもある。 生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。 二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。 しかし、始終ふたつの世界に出入りしていると、この穴はだんだん大きくなる。 しかしまた、この穴はしばらく出入りしないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。 ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、ま、知っていても別にそれを捜そうともしない。 それは、ガラスが曇っていて反対の側が見えないためか、あるいは・・・あまりに忙しいために。 穴を見みつけても通れない人もある。 それは、あまりからだが肥り過ぎているために・・・。 しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。 まれに、きわめてまれに、天の焔を取って来てこの境界のガラス板をすっかり溶かしてしまう人がある。 ( 寺田寅彦『柿の種』岩波文庫、1996年刊p.11-12
) 私はこれを読んだとき、岡田先生との出会いと、私が、その当時、置かれていた貧しい世界から、いろいろな文化の世界に導いていただいたことを懐かしく思い起こしました。この詩文は、言うまでもなく、寺田寅彦が、岡田先生のために、まして私のためなどに、書いたものというわけでは、決してありません。けれども、でも、私の中では、先生との出会いに、深くつながる意味を持つ詩文となっているのです。 それから、ハリール・ジブラーンの詩を一つ。 何が良いかなと思い、「死について」と「挫折」についてのうち、どちらをこの場で読ませていただこうかな、と今まで迷っていたのですが、良寛の詩がありますから、「挫折」のほうを読ませていただいて終わりにしようと思います。 ジブラーンの『狂人』という詩集の中の「挫折」という詩で、神谷美恵子先生がお訳しになり、雑誌「婦人之友」に載り、それが編集されて角川文庫になっているものです。 「挫折」 挫折よ、わが挫折、孤独、孤高よ、 あなたはあまたの勝利よりも大切なもの、 この世のあらゆる栄えよりも心に甘いもの。 挫折よ、わが挫折、自覚、挑戦よ、 あなたゆえに私はまだ若く足早なのに気づき、 名誉の桂冠に捉えられるべきでないのを知る。 あなたの中にあってひとりある境地を見出し うとまれ、あざけられるよろこびをも知った。 挫折よ、わが挫折、光る刃と盾よ、 あなたの眼のうちにこそ私は読み取った、 玉座につけられるとは隷従されるにすぎず、 理解されるとは平らにならされるにすぎず、 把握されるとは自分が熟れた果物のように、 摘まれ、食べつくされるにすぎないことを。 挫折よ、わが挫折、勇ましいきわが同志よ、 私の歌や叫びや沈黙を今に聞かせてあげよう、 また多くの翼のはばたきや、 海原の迫り来るうねりの音や、 闇夜に燃える山々のことを、 あなただけから私は伝えてもらおう、 そして峨々たる私の魂にあなただけを昇らせよう。 挫折よ、わが挫折、不死なるわが勇気よ、 あなたと私と、嵐とともに笑おうではないか、 われらの内に死にゆくものをみな葬るために ともに墓を掘ろうではないか、 そしてわれらは陽の中に毅然と立ち、 危険をはらむ存在となろうではないか。 ( 『狂人』中「挫折」の全訳、 神谷美恵子『ハリール・ジブラーンの詩』、角川文庫、p.39-42
) この詩を朗読しながら、私は、思わず感極まりました。岡田先生とのご縁によって結ばれたこの会で、この詩を朗読できたことを、深い喜びといたします。 きょうは、岡田章先生を偲ぶ会としての「岡田会」を楽しみたく、やってまいりました。「岡田会」を楽しむこと、それは、同時に、私たち一人ひとりの岡田先生との出会いの回想を共有して楽しむことであり、また、私たち一人ひとりの若き日を回想し共有して楽しむことでもある、と思います。さらに、そのことは、お互いとの出会いを通して、私たち一人ひとりが、私たちの生を、現在において、充実させて楽しむことである、とも思います。さあ、大いに楽しみましょう。有り難うございました。 平成20年10月11日 記 |